プロジェクト〈娘〉~中国母の戦略~

定期テスト終わりは気が重い。

外国人向けの家庭教師を副業で始めて十数年、毎回この時期は胃がキリキリする。特に、定期テストの点数を気にするような保護者がいればなおさらだ。そして哀しいことに、そういう親の子に限って勉強が嫌いなのである。4年前に中国から来た中2の静怡(ジンイー)も、まさにその類の娘だ。

チャイムを押すと、ドアが開いて静怡の母・麗佳(レイカ)が顔を出した。今日もタイトなパンツスーツに金色のネックレス、ブレスレットに指輪、そしてアイラインをきっちり引いたメイクが印象的だ。地元の大企業で正社員として働く彼女に会うと、ライオンを目の前にしたチワワのように、子ども相手で肥大化した己の自信が縮み上がってしまう。

「先生すみません。今さっき仕事が終わって帰ってきて…家がちょっと汚いんです」

「いえいえ。わたしの家と比べたら、とってもきれいですよ」

軽口を叩きながら奥のリビングを見ると、机の上に置かれたシャネルのバッグの周りに、ブランドバッグには不相応な大量の書類が重ねられている。いくつも折り目がついて縦に膨らんでいるあのプリントの束は、おおかた静怡のかばんから発掘されたプリント類だろう。そんな残骸をわざわざ机に置いてあるのは、母親がかばんに手を出したということだろうから、静怡は自分からテストを見せなかったということで、つまり今回のテストもいい変化は期待できそうにない。もっといえばテストを見せる見せないでヒートアップした直後の可能性もあるから、めったなことを言わないように気を引き締めなければならない。

「じゃ、今日もよろしくお願いします」

靴を脱ぎ、逃げるように静怡の部屋に向かおうとすると「あっ先生」と母親に止められ、リビングの方に招き入れられた。麗佳の渋い表情が目に入り、心臓がキュッと縮んだような気がした。

「これ、今回のテストです。先生に見せるからテスト出してと言ったんです。でも、全然出さないの」

やっぱり、あまり期待できないなと思いつつ、分厚くなったテストの束を受け取る。見ると、数学は51点、理科は46点、比較的得意な社会は52点。苦手な英語は38点。英語は塾で習わせているようだが、なかなか苦心している。とはいえ、この地域の中2の平均点は大体40点弱だから、なかなか健闘したように見える。

「先生、イーイーのテストですが、やっぱり国語の点数がよくないんです」

結果表によれば、平均点が48点に対して国語が38点。同時期に来日した非漢字圏生徒の0~10点台を見ているので、むしろ点数が輝いて見える。しかし今回、テスト前に出題範囲を網羅し、演習を繰り返したことを考えると、もう少しできていてもよさそうだ。テストの答案をざっくり見渡すと、テストの後半部分を中心に空欄が目立っていた。

「そうですね…答案を見ると、今回は時間が足りなかったかもしれません。でも前半の問題は正答も多いから、よく頑張ったと思いますよ」

ジンイーの母は「んー…」と唇を閉じ、困ったように眉間に少し皺を寄せた。あぁ、また間違った。気を付けて話していても、いつもこの表情をされてしまう。麗佳は察しの悪い日本人にどう伝えればいいか、悩んでいるようにも見えた。こいつは何も分かっていない、間違っている、何でわからないんだ、と。この顔をされると、自分がどうしようもなく愚鈍な教師に思えてくる。いや、実際そうなのかもしれない。

「でも…平均点よりまだ10点も低いですよね。今までもずっと低かったから、今回のテストは先生にお願いして国語の時間を増やしてもらったのに、あまり上がってないから」

至極真っ当な主張だ。外注先が成果を上げていなければ、静怡というプロジェクトの責任者としては改善要求を出すのが当然だろう。とはいえ、日本に来て4年目の勉強嫌いの中学生に、日本人向けの国語のテストで結果を出させるのはそう容易ではない。成果だけ求めるなら、こんな割の悪い仕事、そもそも受けないのがベストだった。というか少なくとも事前に簡単には点数は上がらないと伝えておくのがベターだった。

「どうして解ききれなかったのか、ジンイーに聞いて対策をしますね。文章の内容は理解できていても、時間が足りなかったなら、やり方を見直さないといけませんから」

麗佳はそんなの当たり前だろうと言いたげな表情でこちらを見た。

「中国の学校では、テストや受験の前に同じ形の問題をたくさん出して練習させます。だから子どもも早く解けるようになります。日本ではそういうこと全然しないですよね。習ったらすぐテストです。学校の先生たちも高い点数をとらせるためにがんばってないでしょ。中国では平均点が40点なんて見たことありません。いつも80点以上です」

確かに練習量が少ないのは事実だ。実際、学校では九九でも英単語でも「訓練」は以前ほど求められなくなった。むしろ、子どもの「主体的な学び」のために、授業内の活動としては忌避される傾向にあると思う。しかし訓練を子どものそれぞれに任せれば、勉強が好きな子どもの訓練量は増える一方、勉強が嫌いな子どもはほとんどしなくなるから、両者の差がどんどん開いていく。学年全体のテスト結果をみると、数学や英語の度数分布が、下位と上位の二山に分かれていることが多いのは、このためだろう。だから学習塾では、学校で足りない演習を徹底的に補うことで点数アップにつなげ、出資者である保護者の要望、つまりはテストの成績向上を叶えるのだ。

「先生は中国の宿題の量、知ってますか?」

出た、また宿題話。これまで出会った中国の教育層もみな、同じように自国の宿題の多さを語りたがった。その説明に批判的なニュアンスを含ませていた人はこれまでひとりも見たことがない。正直、ゆとり教育を見てきたヤワな日本人としては、その語りを冷めた目で見ているのだが、それを当人が気にしている様子もない。そういう他者の感情に対して圧倒的に無頓着な中国人が、心底うらやましい。この身勝手で、自由で、誇り高い気質こそ、島国生まれ盆地育ちの自分が中国人に感じる最大の魅力でもあり、また最も相容れないもののひとつでもあると思う。

「ジンイ―が言ってましたよ。とっても多いって」

「そうなんです。帰ったらすぐ始めても、2時間やらないと終わらないんです。それが毎日だから、ちゃんと覚えるんですよ。でも…」

麗佳の眉間にさっきまでの皺がまた寄り始めた。

「でも、イーイーは日本に来てから全然宿題やらなくて…だから、やっぱり覚えないですね」

あなたの娘は勉強嫌いだし、というボヤキは心の中にとどめた。

「学校から宿題は出ているんですよね?」

麗佳は首を横に振り、次ははっきりと眉間に皺を寄せた。

「宿題っていうか、何日までにここまでやって提出っていう締切はあるらしいんです。それでやったら出してって言われているんですが、毎日やらなくても催促されないし怒られないから、多分やらなくていいと思っているかな」

「ああ…」

実はジンイ―が「日本は宿題が楽だし、怒られないから天国」と小躍りしていたことがあるのだが、これも黙っておいたほうがいいだろう。

「でもね先生、やっぱり子どもだから楽したいですよ。中国でもそれは同じです。でも、中国の先生は宿題を出さないとすごく怒りますから、子どもたちもちゃんとやるんです。叩くこともしますよ」

まるで昭和のスパルタ教育だ。学歴が収入に直結しない時代を生きるわたしには、かなり前時代的に感じられるが、それでも中国における学歴の重要性を鑑みれば、当然のことなのかもしれない。だとしてもやりすぎだと思うが。

「確かに。中国の先生は厳しくて怖いってジンイ―から聞きました」

「ああ、中国の学校の先生は、生徒の成績でインセンティブがもらえますから、本当に一生懸命教えますよ」

なるほど、そういうカラクリだったのか。こういう話を聞くと、やはり中国は人間を心底信じていない、というか、人間そのものが本来身勝手で利己的な動物であるのだ、と割り切っているように思える。

「だから、中国の先生は本当に一生懸命教えますよ。目標もしっかり立てます。日本の先生はたぶんKPI知らないですよ」

そう言うと、麗佳はわたしのほうをちらりと見た。

KPI、重要業績評価指標はビジネス畑の人間なら必ず目にする言葉だが、これをあえて説明抜きに投げかけることで、わたしのことも試しているのだろう。

「日本の先生は成績をあげてもインセンティブもらえませんからね。KPIを設定する意味もないですし、知らない先生も多いと思いますよ。応援はしますが、最後は子どもの自主性におまかせですかね」

麗佳は少しつまらなさそうに顔を背けた。

「わたしは自主性って違うと思います。なんか自分でやってっていうのは、優しいより冷たい感じがする。愛がないっていうか、放置してるって感じ」

口を少しとがらせながら悲しげに話す麗佳を、わたしは初めて見たような気がして、何だか面食らってしまった。先ほどまでの非難や怒りを含んだ顔つきとはまるで違って見える。

「懇談会のときも、先生は『よく頑張ってますよ』だけ。自主学習も出してないし、点数も平均点以下の教科があるのに、悪いところを指摘しないんです。正直子どもの成績に無関心かなって…外国人だから低くてもしょうがないみたいな感じがする」

不幸なすれ違いだ。教員は静怡の成績が悪いとは恐らく思っていない。4年前に来日した生徒が、授業にも落ち着いて参加し、テストの点も上がってきていて、およそ平均点をとっている。親の収入は平均以上、教育にも熱心だ。磨けば光るダイヤモンドたちを粗く削りこそすれ、極限まで輝かせるのは公教育の仕事ではない。第一、いまだ岩に埋まったままのダイヤモンドを掘り出すので教員たちは精一杯だ。

「学校の先生はジンイーを心配していないと思います。ジンイーにはいい学習環境がありますし、もっと他に心配な生徒も…」

そう言い終わるが早いか、麗佳はため息をついた。

「それなんです。テストの結果を見ると、イーイーよりも点数の悪い生徒がたくさんいますよね。正直入れる学校間違えたかなって。もっと成績のいい子が多い地域に住むとか…」

「まあ少しは違うかもしれませんが、ジンイーの学校は市街地だしそんなには…」

一応突っ込んでみたものの、麗佳の耳には入っていないようだ。

「もっと早く日本に連れてきて、私立中学に入れればよかったと思います。そうしたら、国語ももっとできたと思います。本当は小学校2年生くらいで連れてこようと思ってたんです。でもコロナが始まって5年生になっちゃった」

小2で来たとして、うまくいけば会話がそれなりにできるようになるまでに約1年、中国人ならその間の漢字や算数は母国の知識で対応できるだろうから、無謀な計画ではない。

「まあ、後悔しても仕方がないですから、今できることをするしかないですが。でも、わたしはイーイーがまだ幼稚園のときから、受験のことを考えて、計画を立てて動いています。わたしだけじゃないです。中国人の親はみんなそうです」

娘というダイヤモンドに一擦りでも多く磨きを、1ミクロンでも小さい研磨剤を。そのためにはどんな支出も手間も厭わないという覚悟が麗佳の、あるいは中国の母親の献身を支えている。

「そんなに小さいころから受験のことを考えていかないといけないんですね」

素直に思ったことを伝えると、麗佳はふふふ、と笑みを浮かべ、秘密を教えるように少し顔を近づけた。

「知ってますか先生。中国では、国内の高校に行けるのは上から60%だけで、残りの40%は職業学校に行きます.。その60%の中で、重点高校っていうんですけど、いい高校に行けるのは上から20%くらい。そこに入れないと大学進学はできないんです。だから、まあまあお金のある人達は、国際学校っていう外国の学校に入るための勉強をする学校に入らせて、国外に引っ越します。お金が払えない人は中国に残って高校を卒業しますが、あまり就職はよくないんです」

そういえば、以前通訳に来た中国人が「中国では高校、大学、就職で半分ずつ減っていく」と話してくれた。そのときは分かりやすく伝えるために単純化したのだと思っていたが、あながち間違いでもないのかもしれない。

「行く国にもランクがあるんですよ。一番は欧米。英語もできてお金もある人達が行きます。次はシンガポールとか香港。その次が日本と韓国、最後にそれ以外の国。昔は日本に来たい人が多いし、経済も強かったから、お金があって成績が良くないといけなかった。でも今は違います。日本の経済が弱くなってから、成績が悪くてお金もなくても来る人が増えました」

これは同業者からもよく聞く話だ。「○○人の子どもって…」という枕詞は偏見と表裏一体なので、特にそういう話に敏感なこの業界では、リスクしかない禁句である。しかし、気の知れた身内の中では「最近中国から来る子どもは、昔よりも知識も理解力も弱い子が多い」という話をよく耳にするようになった。私が業界に入った十数年前には中2、中3で来日しても定期テストで平均点以上取るような生徒はざらにいた。本人たちに聞くと「数学や英語は既に学習済みだし、それ以外は分からなくても漢字を見て推測すればおおよその意味はわかる。あと社会とか国語とか知らないところだけ自分で勉強すればできます」と、こともなげに言うのだ。しかし残念ながら、最近来日する中国の生徒は、静怡も含めて以前のような確かな知識や勉強における器用さは見られない。「できるから」と暗算に拘る割に半分以上間違える。「化学はわかる。中国でやった」というから質問してみれば、実際には「名前を見たことがある」程度の話で、挙句の果てには「これはやってないだけ」「中国でやったものは分かる」と言う。ああ、思い出すだけで腹が立ってきた。いや、ここで嘆くべきは子どもではなく日本経済なんだろうが、そうはいっても気に入らないものは気に入らない。

「わたしはイーイーが小さいときに、日本に来て仕事をし始めたので、もう少しで永住ビザも取れると思います。永住ビザが取れれば、華僑として特別な試験が受けられますから、中国で試験を受けるよりいい大学に入りやすいんです」

なるほど。麗佳の話をそのまま信じるなら、日本に来る中国の子は母国で上位40%から50%くらいの子どもたち、ということになる。偏差値で言えば50から50弱くらい。肯定的に見るなら、静怡は中国と同じ偏差値を来日4年で、しかも日本語で手に入れた、ともいえるし、あえて穿った見方をするなら、”勉強が簡単な日本”でも偏差値はほとんど変わらなかった、ということだ。しかし、偏差値がほとんど変わらなくても、外国に定住してしまえば大学受験のハードルが下がる。そのために必要な永住ビザは、日本では10年以上の在住が条件だから、麗佳は静怡が小学校に上がる前には日本に来て離れて暮らしていたことになるが、中国では親は出稼ぎに出て、祖父母に養育を任せることは少なくない。むしろ仕事をしてお金を稼ぎ、子どもの教育を金銭面・環境面から整えていく麗佳の姿こそ、中国の母親の愛ある養育の姿といえるだろう。

「作戦、戦略なんです、先生。そうやってみんなで競争するから、子どももいい人材になるんです。だから中国は強いんです」

麗佳の目に迷いはなく、誇らしげな笑みをたたえている。確かにそうだ。指輪にきらめくダイヤモンドも、よりよい磨き方や切り方を研究し、その質を競い合ったことで永遠の輝きを得ることができたのだ。国内の経済競争を失った国がどうなったのか、歴史を知る我々なら知っていることだ。

「あっ、ごめんなさい先生、たくさん話してしまって。もう時間すぎてますね」

「いえいえ、お母さんの考えが深く知れてよかったです。静怡のあとに他の生徒もいないので、遅れた分の時間は延長しますね」

会釈をして、静怡の部屋に向かった。静怡の育ってきた環境や母からの気質の遺伝を考えれば、彼女にはもっとたくさん課題を与えたほうが成績があがるのかもしれない。毎日やる宿題を増やしてみようか。今なら効率よく点数を上げる計画が立てられそうな気がして、少し高揚した気分のまま静怡の部屋の戸を開けた。

「ジンイ―、ごめん遅くなって。テストの見直ししようか」

机の前で中国語の本を読む静怡に声をかけると、読んでいる本から目を離さないまま「はぁーい」と長い返事をした。中国語の本は「日本語を勉強しなきゃいけないから、日本語の本しかダメ」と麗佳から禁止されているが、中国の子ども向け学習本だけは許可されているらしい。

「さっきお母さんから中国の受験の話を聞いたよ」

私が隣に座ると、静怡は本から目を離さないままゆっくり立ち上がり、本棚へと向かった。

「中国の受験って本当に大変だね。いい学校に入るために、子どもが小さいときから計画を立ててさ。すごいよ」

静怡は、何も言わず本棚に本を戻し、椅子に腰かけた。

「子どもの受験のために親も一生懸命でさ」

「ねえ、先生」

静怡が、シャーペンを筆箱から出しながら口を開いた。

「先生は、中国でなんでみんな一生懸命勉強するか、わかる?」

なぜそんな答えの分かり切った問いをするのだろう、と少し戸惑ったが、一応麗佳との話を思い出しながら答えた。

「え、だからいい学校に入るためじゃないの?あ、いい仕事をするためとか。試験に落ちたら就職は難しいって聞いたし…」

わたしの答えに、静怡は首を振り、まっすぐこちらを見た。

「中国に捨てられないためだよ」

(続く)

Leave a comment