1ミリのわたしと 5ミリのあの子

シャーペンのペン先は何ミリが正解なんだろうか。

目の前で漢字プリントの薄文字をなぞる生徒をぼんやり眺めながら、ふと考える。

わたしは筆圧が強く、昔からシャーペンの芯は太さ0.5ミリと決め、短めに1ミリくらい出して書くようにしている。そうすれば、ふいに力を込めてしまっても、指の圧力に芯が負けることはまずないからだ。しかし、中学時代のクラスメイトの女の子は違った。そのペン先は短めの注射針ぐらい伸びていて、しかも太さ0.3ミリのシャー芯だった。当時のわたしは感心したように、すごい、わたしにはできないと、求められてもいないのに褒めそやしていたが、それは腹の底に沈む言いようのない敗北感を誤魔化すための苦肉の策でもあった。

さて、そんなことより問題は、目の前で漢字練習をするアニタのシャーペンである。ざっと5ミリは芯が出ているが、彼女はとぼけた顔でペンを握っている。1か月前まで母国で学校に通っていたことを思えば、日本の文房具の使い方がまだよくわかっていないということも、考えられなくはない、が、細くて長いものを斜めに押し付けたらどうなるかぐらい、十三の齢ならばわかっていてほしいところだ。素麺なり、ポッキーなり…と考えたところで、それがやはり彼女の身近にないことを思い出し、彼女が”5ミリの長さのシャー芯が折れやすいことを知らない”という可能性も、頭の隅に置いておくことにした。

「春」の字をなぞる炭素の棒は、横棒を書くたび、下に弧を描いてしなっていて、かなり危うい。今か今かと眺めていると、三本目の横棒でパキッと音を立てて芯が折れてしまった。ギリギリのところを耐えてきたのに、なんともあっけない最後だった。

一瞬の静寂の後、折れてしまったペン先を真ん丸の目で咎めるように一瞥したアニタは、100均で買ったというパステルパープルのペンの頭を二回ノックした。すると2回目のノックでヘッドが芯を支えきれず、今度もまた長く飛び出してしまった。

「長いですよ、それ。折れますよ」

シャーペンの先を指さして声をかけた。

しかしアニタは、ペン先を直さないどころか、こちらをチラリとも見ず、顔の横にかかったウェーブヘアーを背中に流してから、デッサンするように欠けた線を整え始めた。

―なにが、細長いものの扱いを知らないかも、だ。そんなわけないだろう。

ため息を飲み込み、心の中で何回も舌打ちをする。

わたしの発した「折れます」という言葉そのものの意味を、彼女はまだ知らないだろうことは、来日直後から日本語を教えてきたわたしが一番よくわかっている。しかし、だからこそ、彼女がわたしの指摘をあえて無視していることも、1カ月も一緒に過ごしていればわかってしまうものだ。

恐らく事の発端は、数分前に「日の書き順は”縦・横・縦・横・横”です」と、わたしが繰り返し指摘したことにあるんだろう。名誉のために言っておくが、別にわたしは書き順信者ではない。極端な話、その漢字だと見て分かるなら、一筆書きどころか下から上に書いても構わないと思っている。もちろん書き順のルールは教えるし、授業でも多少は訂正しているが、正直なところ本当にどうでもいい。ある種の外国人特権だ。

しかし、中学一年のアニタは外国人でも事情が違う。来日二ヶ月の彼女も、あと半年もたてば望むと望まざるとにかかわらず、学校の定期テストを受けることになるだろう。ただでさえ、日本語学習や母国とのカリキュラムの差で学習の遅れがある厳しい状況だというのに、運よく分かった回答を漢字の書き方を理由に誤答にされたら、目も当てられない。外国人なんだから学校教員がもう少し寛大な採点をするべきだという意見もあるだろうが、教員らも日々の小テストなどで「今回はいいけど、定期テストではダメだぞ」などと言って大目に見てくれている場合がほとんどだ。ただ残念なことに、中学生はそんなこといちいち覚えていないし、定期テストでも大丈夫だろうと思っているからそのまま書いて泣くハメになる。中途半端な優しさは、かえって彼らのためにならない。それなら定期テストでも寛大にというのも、無理がある。そもそもテストとは、一定の基準のもとに採点されるものだし、何らかの配慮は採点前に実施しておくべきだ、というのがわたしの考えだ。

更に長いスパンで考えれば、中学で来日した子どもが成長し、”まるで日本人のような”流暢な日本語を操る大人になったとき、字がめちゃくちゃだったら。その理由は彼らの能力や性格の問題に転嫁されることになるだろう。今どきそんなこと、と思うかもしれないが、いまだに大人のペン習字が人気だったり、「俺は字が汚いから、代わりに表書き書いてくれや」というセリフが受け入れられるのは「名は体を表す」ならぬ「字は体を表す」が、日本社会の暗黙の了解になっていることを如実に表している。

―などといった、長ったらしい説明を滔々と翻訳アプリに吹き込んでも、目の前の子どもは欠伸を噛みしめながら、誤訳まみれの怪文書を眺めることになるだろうから「そうじゃない、こう書いて」と短く訂正しているわけで。

横棒のデッサンが終わると、アニタはまさに注射針のようなペン先をそのままに、次のマス目に取り掛かった。

「アニタさんのペン、それ、ダメですよ」

もう一度声をかけるが、もちろん芯を戻す素振りは1ミリもない。

いつまでこの茶番に付き合わされなきゃならないんだ、と心の中で悪態をつきながら、もう一度声をかけるタイミングを見計らっていると、次は左の”はらい”の尾で、やはりポキッと折れた。

こらえきれず、わたしは自分のシャーペンを手に持ち、ペン先を指さしながら言った。

「アニタさん、ペンのここ、長いです。」

アニタが手を止めたので、自分のシャーペンの芯をアニタと同じくらい繰り出してみせた。

「これは、長いです。折れます。見て」

ペンを紙に強めに押し付けながら左の払いを書いて、これ見よがしに折って見せた。その瞬間、アニタの目がこちらを向いたが、先に喧嘩を売ってきたのはそちらだし、売られた喧嘩は買うタイプだ。

「ね。折れます。これがいいです。こう」私はペンをノックして馴染みの1ミリを出して「春」の字を書いて見せた。しかも折れないことを強調するために、一画ごとの初めと終わりを書初めのようにじっくりと。芯を折って反抗するなら、こちらは字を書いて対抗してやる。

アニタはわたしの「春」の字が書き終わるのを見届けると、何も言わずまたペンをノックした。

今度は滑り出さずに1ミリとちょっと。

「そうそう、それです、いいで―」

頷きながら顔を上げ、微笑もうとした。その瞬間、

…カチッ

―そのノック音はまるでゴングのように私の脳内に鳴り響き、微笑もうとした口角が下がると同時に眉頭に力が入るのを感じた。

アニタの手元には見慣れた注射針が握られ、飛び出した芯は私を挑発するかのように伸びている。ペンを取り上げ、芯を直してやって突き返すか。それとも、なにが嫌なの?とやさしく翻訳アプリに吹き込むか。いやいや、プリントを取り上げて、授業を終わりにしたっていい。どれが理想なんだ。どれが正解なんだ。

黙りこむわたしをアニタがチラッと見たのを感じたが、気づかないフリをして、わたしはプリントのマス目を指差した。

「ここ、書いてください」

アニタは、示されたマス目を見ると、黙って先の飛び出たペンを握りなおし、先を滑らせるように書き始めた。

わたしが静観を選んだのは、それが正しいと思ったからではなかった。ただ、面倒くさくなったからだ。君の反抗心を慮るのも茶番から降り続けるのも、もうどうでもよくなって、やさぐれた自分に”教育的見守り”というプラカードを持たせただけのことだった。

「春」のマス目はあと三つ残っている。ふるふると揺れる心許ない芯の先で、アニタが薄く細い春の字を書いていくのを、わたしは椅子に深く座り直し、机の下で爪の皮を剝きながら眺めた。その間にも芯は何回か折れたが、わたしはもう何も言わなかった。

考えてみれば、東南アジアにある母国から母国語の殻に包まれてやってきたアニタは、この日本語の森で一カ月前に生まれた雛のようなものだ。私はさながら、托卵されたツバメのように、毎日新しい餌、もとい言葉を教え、食べにくいようなら飲み込めるように噛み砕いて与え直してきた。その甲斐あって、めでたくも雛がイヤイヤ期に突入したというのに、わたしは早々に嫌気がさして餌を引っ込めてしまったわけで、そんな自分の狭量さも情けなかった。

最後の一マス。アニタがノックをすると短くなりすぎた芯が、ペン先から滑り落ちてしまった。アニタは慣れない手つきで替え芯を取り出すと、それをペン先から押し込んだが、芯は途中でペンのヘッドに引っかかって折れてしまった。瞬間、わたしの頭に「天罰」の二文字が浮かんだが、もうそれを狭量だとも思わなかった。

アニタは、また性懲りもなくペンを二回ノックした。が、今度は、出過ぎたペン先を紙の上でほんの少し押して戻したように見えた。すると、背伸びをするようにスラリと伸びたペン先は、心許ないながらも安定感を取り戻し、横線にも、右払いにも耐え、縦、横、縦、横、横と日の字を書ききってしまった。

なんだか拍子抜けだ。次の授業までこの調子だろうと踏んでいたから、こんなにすぐアニタが折れるとは、正直思っていなかった。

わたしは椅子に座り直し、赤ペンのキャップを取ると、その漢字の上に丸をつけながら言った。

「これ、いいですよ。いいです」

アニタはプリントに書かれた丸を見ると、何かを思いついたのか、わたしの手の中の赤ペンを指さした。

「せんせい、ペン、かしてください」

また面倒ごとが起こりそうな気配がして一瞬貸すのを躊躇ったが、その間にアニタはわたしの手からさっさと赤ペンを取り、プリントに何かを書き始めた。「いいよ」というまでは取るなと再三言っているのに、また忘れているようだ。

「せんせい、いいですじゃない。いい、じゃない。とてもいいです、ね」

アニタは、わたしの書いた丸に大きな花びらを書き足して言った。彼女の試すような視線は、日本語の森の広さも知らない身の程知らずな雛が、今、巣の外へ旅立とうとしていることを感じさせた。絶対に褒めてやるものか。せめてもの仕返しにと、目をつぶって口を結び大げさに微笑んでみせてやると、アニタは満足げに赤ペンを私の手元に返して、自分のシャーペンを手に取った。

それをみて、わたしもふと思い立ち、手を差し出して言った。

「アニタさん、アニタさんのシャーペン、貸してください」

わたしを見るアニタの大きな目が一瞬泳いだが、ハッと気づいたように自分のシャーペンをわたしの手にのせた。3ミリほど出ているペン先はやはり危なげで、すぐに折れてしまいそうだったが、紙に当ててみると思っていたよりも安定感があった。

「次の漢字はこれです」

わたしが恐る恐る「夏」の字の手本を書くのを見て、アニタは楽しそうに笑っていた。

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